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水の話 第1話 「神田上水」

  • 執筆者の写真: 山本真史
    山本真史
  • 1月29日
  • 読了時間: 2分

更新日:2月3日

本ブログでは「山の話」や「水の話」を連載していきたいと思います。


記念すべき「水の話」の第1話目は「神田上水」


河川マップではこちら (PC推奨 /スマホではうまく表示されません)。


水の話の1話目に何を書こうか迷いましたが、東京の発展の端緒となった江戸幕府の開幕、そしてまず重要となった飲み水の確保という点から「東京の水事情」を語るなら神田上水から始めるのが適当と考えました。


難しい事は書けませんし、書きません。


ポイントは井の頭池や善福寺池などの「湧き水」を水源とした事、神田や日本橋をうるおした事、江戸の経済発展にともない本上水でまかなえきれなくなり新たに玉川上水が開削されたことくらいでしょうか。


昔、水源は大きく分けて3種類ありました。

1つが湧き水、1つが地下水、1つが河川水。これは湧き水ですね。


イメージしにくいですが、昔は東京もただの野っ原で、武蔵野台地には井の頭池や善福寺池などスポット的に水が湧く谷戸(やと/丘陵地の谷部)があり、そこからの流れが小川を形成していたようです。


各池から集められた水は関口大洗堰(現在の文京区関口)で堰き止められて分水され、一方が東の小石川の水戸藩邸へとどけられ、余水は南の下(しも)に流されて江戸川(現神田川下流/現在の江戸川とは関係なし)を形成しました。


歌川広重の「東都名所 御茶之水之図 (とうとめいしょ おちゃのみずのず)」(1800年代初期)では、水戸藩邸を通過した神田上水が掛樋(かけひ)で神田・日本橋方面にむけて江戸川の上を横断する様子が描かれています。同掛樋が水道橋の語源です。


写真2枚目は昇斎一景(しょうさいいっけい)の東京名所四十八景「関口目しろ不動」(明治4年/1871年)。関口大洗堰と目白不動尊が描かれています。同不動尊は元は文京区関口の新長谷寺(しんちょうこくじ)にありましたが大戦末期の1945年にお寺が焼失。現在の豊島区高田の金乗院に移され合祀されました。目白という地名は、金乗院に祀られることになった目白不動尊に由来すると言われています。


さて、この神田上水の一部が現在の神田川になっています。神田上水の上流、その下の江戸川、そして神田山が削られて開削された下流部が現在の神田川の原型です(神田山の土は日比谷入江の埋め立てに使われました)。


最後は少し脱線しましたが、本件で覚えておいていただきたいポイントは一つだけ。


江戸の飲み水は、武蔵野台地の湧き水でまず支えられておりました(^-^)v

 
 
 

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